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煌めくキメラ―荒木由香里のレディ・カラード・スカルプチャー

 

 個展会場で天井から吊り下げた小さな作品を手に取ると、「ここで吊ってもいいし、こっちの金具につなげてもいい」と、くるりとひっくり返して見せてくれた。その時筆者は、吊り下げる形式での展示が多い荒木由香里の作品の、その浮遊感とも言うべき特質を改めて認識した。作品の天地が変更可能ということは、おそらく様々な向きに回転させながら物体を繋ぎ合わせて、アッサンブラージュが作られていったのだろう。

 一方で、ハイヒールのシリーズに代表されるように、明確に天地が決まっている作品も存在する。靴の造形に寄り添うように、いくつもの細長い柱が導入されて作品の重心を上に押し上げ、結果として中空の多い建築的な構造が生まれている。

冒頭の小品は吊り下げることで、そしてハイヒール作品は重さを支える構造をむき出しにすることで、重力のありさまを鮮やかに可視化する。その点ではどちらの系統も同根の発想と言えるだろうか。素性の異なるモノたちは、荒木の作品に組み込まれることで本来の用途とは異なる第二の生を生きる。

 彼女は普段から作品に使えそうなネタ(身の回りの既成品)を集めていて、近頃では荒木が好みそうな不要品を持ってきてくれる人もいるらしい。こうして集められたモノたちは、それぞれピンクや青などに色分けされてアッサンブラージュに使われることとなる。しかし、その出来上がった作品に、色の統一感といったものは意外なほどない。むしろその外見は、光沢、マットな質感、透過性、光の反射…とちぐはぐな印象を与える。アッサンブラージュだから多種多様なのは当然のこととしても、あえて一つの色でまとめることにより、その素材同士の異質さは強調され、キメラ的な印象はより強化されることになる。

 しかし、だとしても作品の出発点にあるのは、それが何色のものとして分類されているかという色分けの儀式であり、荒木は作品に自ら色を着けるのではなく、商品として流通する物質の色を受動的に分類する役に徹するのだ。今日、雑貨であれ洋服であれ、製品というものは色だけを変えたものを何種類も取り揃えて初めて、商品として流通可能となるようだ。あたかも、ヴァラエティに富んだ色数を揃えて選択肢を増やすことが善であるかのように(しかしそれは本当に選択肢なのか?)。

 荒木の作品をレディ・カラード・スカルプチャー(既に着色された彫刻)と呼びたいのはこうした点においてである。そして、色彩が作品の重要な要件にもかかわらず、作者が行うのは着色ではなく選別であることによって、荒木の作品は色彩の存在論的な問いを発する。かつて作るという行為に対してレディメイドが投げかけた問いを、色とは何かという形式で変奏するのである。

 既成品の色に従うという点で、拾ったプラスチック片を色相に従って並べたトニー・クラッグの作品を思い浮かべる者もあるかもしれない。彼の場合は、プラスチックという最も20世紀的な素材に限定することで、作品がある種の文明批判的な性格を帯びた。荒木の場合は物質がなんであるかを問わず、あらゆるものに同様に色を着けてしまう、21世紀の我々の嗜好を浮かび上がらせる。彼女の仕事は煌びやかな印象を与えるためか、しばしばファッション的ともデザイン的とも捉えられがちだという。だが、むしろその本質は、色に対する現代社会の強迫観念をあぶりし、色という不確かなものに我々が寄せる無意識的な信頼を「漂白」するような機能なのだ。

 

石崎尚(愛知県美術館学芸員)

2024年1月

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